福岡島根旅行1

 宗像大社世界遺産認定。それはとても喜ばしいことなのだけれども、一点残念なことがあった。沖津宮現地大祭の一般参加枠がなくなったことだ。宗像大社沖津宮は島全体が御神体とされる絶海の孤島、沖ノ島にある。本島は一般人の立ち入りは基本的に禁止されており、普段島にいるのは宗像大社から派遣されたただ一人の神職のみ。この沖津宮に一般人が参拝することができる日が一年に一度だけある。それが沖津宮現地大祭の日だった。本祭は沖ノ島近くが主戦場となった日本海大戦を記念するもので、抽選で選ばれた70歳未満の男性200名が一般人でも参加することができた。私はこの抽選に今年の春応募したが外れてしまい、来年こそはと思っていたのだが世界遺産認定に伴い一般参加者を今後募集しない方針が発表された。一般人が島に上陸する機会は失われたのだ。男性のみが上陸を許されるのは差別的だと認定の際に問題視されたためだという。個人的には非常に残念だ。

 私は神社巡りを趣味としている。福岡県の神社を巡る旅行は昨年12月に一度行ったが、このとき県内の重要な神社をあらかた回り切ったというわけではいない。むしろ明治政府が定めた近代社格制度において頂点を極める官幣大社3か所を含む多くの神社に訪れずに帰ってきた。理由は二つある。一つ目は福岡県に重要な神社があまりに多すぎることだ。当地は大陸との距離の近さ故、海外渡航の拠点として古来より重視されてきた。三韓征伐の拠点になったことから、仲哀天皇や神功天皇応神天皇の縁の地も多い。神功天皇応神天皇といえば八幡神として信仰されている人物であり、仲哀天皇を八幡三神に含めるという立場をとる神社も見られる。その他、菅原道真が左遷された大宰府修験道三大聖地に数えられる英彦山、全国の水天宮の総本宮など、さまざまな信仰の場が点在している。神社本庁が人事において特別扱いをする重要な神社は別表神社と呼ばれるが、福岡県はこの別表神社が最も多い都道府県でもある。二つ目の理由は宗像大社現地大祭に参加する際に私が博多を訪れることは自分の中で既定事項だったことだ。私はこの先の人生、70歳になるまで沖津宮現地大祭の応募を続けるはずだった。そして当選した際は必ず博多を訪れなければならない。博多周辺の神社巡りはそのときに行えばよいと思っていたのだ。

 しかし現地大祭の一般参加枠は来年からなくなる。抽選に当たって現地大祭に行くときなど、募集が再び行われるようにならない限り決して訪れない。そういうわけで夏休みに博多へ行ってしまおうと思った。元々出雲に行く予定だったが、博多にも寄ることにしたのだ。

 テスト最終日の夜、ものすごいイケメンのauの店員さんに電話料金を支払い、新宿駅みどりの窓口に30分ほど並んで青春18切符を購入した私は、小田急線で小田原駅へ向かった。小田原駅では現地のミネラルウォーターと温泉饅頭を購入。このミネラルウォーターは新宿駅でも売っていたのだが非常に美味しかった。温泉饅頭は普通だった。

 小田原駅でしばらく待機した後、日付をまたいだタイミングで青春18切符を提示し改札に入った。0時30分発のムーンライトながらに乗車するためだ。電光板を見ると、終電と表示された熱海行きの電車の下に我々が乗るムーンライトながら号の名前が輝いていた。小学生ぐらいの男の子とおじいちゃんがムーンライトながらと表示された電光板の前で記念撮影を行おうと試みているが、電光板の表示はせわしなく変化し続け、撮影は難航。列車が到着する際は、いかにも社会性のなさそうな鉄オタと思われる男性達がそれなりによさそうなカメラで必死に車体を撮影しまくっていた。周囲は、そして私自身も、終電の後にずっと遠くまで駆け抜ける夏の夜行列車に心躍っていた。車内ではほとんど寝れず、アニメ版Kanonの主題歌である風の辿りつく場所を聞くなどして貴重なスマホの充電を贅沢に浪費して過ごした。これは絶対に間違っていた。

 午後2時頃広島駅の一駅手前、天神川駅に到着。当駅から徒歩30分程度の位置に神武天皇が東征の途中しばらく居を構えたという多祁理宮に比定される多家神社がある。スマホの充電は愚かにも30パーセントを切っていたため、グーグルマップの使用は控え、通りを行き交う人々に道を尋ねて歩いた。4人の地元民が全員違う道を提示してくれたので、ルート変更に次ぐルート変更を繰り返すも、驚くべきことに30分ほどでほぼ時間通り到着。最後に道を聞いた中学一年生ぐらいと思われる制服を着た男子は神社まで無言で着いてきてくれて、鳥居の前で「ここです」と言い残し元来た道を引き返して行った。無事最短距離に近いであろうルートで辿りつけたのは親切な少年のおかげだった。

 神武天皇は多祁理宮に7年滞在したと古事記には記されている。神武は多祁理宮に着く前には北九州の岡田宮で1年、多祁理宮を出た後は岡山の高島宮で8年を過ごしている。神社側の説明では軍備拡張に7年を費やしたということだが、実際には戦争を行っており前線を進めるのに時間がかかっていたのだろう。

 

つづく